大倉工業株式会社

大倉工業グループの歩み

大倉工業グループの歩み

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75周年を迎えて

75thAnniversary 地域に根差し、100年企業を目指します。

代表取締役会長 髙濵 和則

  • 新規材料事業部が生まれたきっかけ

     私が大倉工業に入社したのが1975年ですから会社が創業して30年弱の頃です。当時の事業は建材と合成樹脂の2本柱でした。私が30代後半だった1987年に、創業者で当時の松田社長から会社の将来を見据えて「新しい事業を考えてほしい」と号令がかかりました。条件はただ一つ「今やっている事業と絶対にかぶらないこと」でした。2つの事業は順調だったのですが、「事業が好調で投資余力がある時にこそ新しい事業に取り組まないといかん。君たちが多少失敗しても会社はつぶれへんから安心せえ」と言われたのを覚えています。
     合成樹脂事業でそれまで扱っていたのはポリエチレン、ポリプロピレンといったいわゆる汎用樹脂でした。そこで培われた要素技術であるフィルムハンドリング技術、フィルム成形技術を生かして、新しい分野に取り組むことができないかと考え、着目したのが当時注目を集め始めていたエンジニアリングプラスチック、スーパーエンジニアリングプラスチックでした。
     当時はブームみたいなもので多くの企業がそこに飛びついていたのですが、モノにできているところはありませんでした。当社がその中でもこれからおそらく市場が伸びていくだろうと可能性を見出したのが熱可塑性ポリウレタンエラストマー(TPU)でした。
     その後、液晶表示の視認性を良くするために、住友化学さんが開発した、ポリカーボネートを使ったフィルムができたときに「量産化技術を任せたい」と相談されたのがきっかけです。そうしてできたのが液晶表示装置で使う位相差フィルムです。これが液晶表示のカラー化の第一歩となりました。
     その技術が評価され後になって携帯電話で採用され、そして位相差フィルムと偏光フィルムを組み合わせたフィルムはスマホの1号機から現在の最新機種に至るまでずっと採用され続けています。サプライチェーンの関係から2社購買を始めるまでの初期の段階は全て当社が生産を請け負っており「メイドイン丸亀」の部品が世界市場を席巻したと自負しています。
     新たなものづくりに挑戦する時に、当社はニーズをお客様からいただいて形にしてきたわけですが、かといってシーズがあったわけでもありません。シーズについてもお客様に教えていただきながら培ってきました。おかげさまで、今ではハードルの高い技術に挑戦してきたからこそ得られた要素技術を積み上げ、大倉工業ならではのシーズをため込むことができ、更に新しい分野へ挑むことができています。

  • 建材事業と合成樹脂事業のこれから

     私が入社した頃の建材事業は合板を扱っていました。その加工の際に出る端材をいったんチップにして再利用し、商品化したのがパーティクルボードです。合板についてはその後、二次加工品としてプリント合板なども手がけ事業を広げました。そのうち原木の輸入が難しくなったために結局は撤退し、パーティクルボードのみが事業として残っています。パーティクルボードは、建築解体材等の木質廃材を主原料としてマテリアルリサイクルすることで、資源を有効活用し、循環型社会に貢献しています。
     合成樹脂事業は当社の最大の柱ではありますが、脱プラスチック化の流れを受け逆風が吹いています。再利用する仕組みをしっかり構築していくことで環境に貢献できるように取り組んでいます。一方で、食品包装フィルムのように食品ロスの削減に大きく貢献できる商品群もそろえているわけでプラスチックフィルムの有用性についても合わせてアピールしていかなければいけないと考えています。
     75周年という長い歴史を紡いでこられたのは、一つは全国に工場を展開し、地産地消のものづくりをしてきたことが要因だと考えています。つまり、お客様に近いところに工場をつくることで、お客様のニーズにすぐに応える体制ができたこと、そして配送費などのコストも抑えることもできました。加工の仕事は労働集約的で人手に頼るところが多いため、できるだけ多くの人を採用できるという点でも地方への拠点進出は当社の成長にとって助けとなりました。それぞれの土地において地域から信頼を得ることができなければ人を採用することもできません。それはまさに当社の経営理念にある「人ひとりを大切に」「地域社会への貢献」「お客様を第一に」に象徴される、当社に根付いた気風があったからこそできたことだと思っています。

  • 幾多の危機を乗り越え、より強靭な体質へ

     一方で、75周年という長い歴史の間には様々な危機にも直面してきました。1996年には詫間工場で爆発事故を起こし、多くの犠牲者を出してしまいました。この事故を教訓に、「安全はすべてに優先する」という考えのもと「安全は経営の根幹である」の標語を制定しました。現在に至るまであらゆる場面で社員はこの標語を唱和することで、安全に対する意識は従業員一人ひとりに浸透しています。また、事故が発生した11月28日を「大倉安全の日」と定め、毎年安全大会を実施することで二度と重大事故を起こさないよう誓い、事故の風化を防いでいます。
     2008年のリーマン・ショックの際には大きく売り上げが落ち込みました。当時は、400億円近い借入金を抱えており、事業規模に対する適正な借入額はどのくらいだろうかと考える契機になりました。長い将来を見据えた上でしばらくは強固な財務基盤を築き上げるべく、キャッシュフロー経営を重視するとともに投資よりも返済に重点を置きました。その取り組みが功を奏し、ここ数年でようやく実質無借金に転じることができました。このように危機に直面しながらもそれを契機により強固な企業体質を築くことができたと感じています。

  • 地域に根差し、人が集まる会社に

     大倉工業は、従業員の生活を守り、社会復興に役立つことを目指して創業しました。以来、75年が経過し、現在も一人ひとりを大切に、事業を通じて社会に価値を創造し、社会課題解決に寄与するという理念は脈々と受け継がれています。
     これからの大倉工業にとっても一番大切なのは人。「大倉工業で働きたい」とよりたくさんの人に感じていただけるよう、女性、高齢者、その他様々な背景を持つ皆さんにとって働きやすいと感じることのできる環境整備に努めます。そして、かつて新規材料事業部を立ち上げた時のように「丸亀から世界へキーパーツを」という自負心を持って100周年に向けまい進していきます。

沿革

1947年7月
高松市において旧倉敷飛行機高松製作所の役員・従業員の一部をもって住宅業の「四国住宅株式会社」を設立
1951年11月
商号を「四国実業株式会社」に変更
1955年11月
商号を「大倉工業株式会社」に変更
1956年1月
丸亀工場(丸亀市港町)においてポリエチレンフィルム加工工場の操業を開始
1962年1月
株式を大阪証券取引所第2部市場に上場
1962年4月
本社工場(丸亀市中津町)の操業を開始
1962年12月
丸亀第二工場(丸亀市昭和町)においてラワン合板の生産を開始
1964年6月
丸亀第三工場(丸亀市中津町)において化粧合板工場の操業を開始
1967年10月
埼玉工場(東松山市大字柏崎)の操業を開始
1968年2月
詫間工場(三豊市詫間町)において合板の生産を開始
1970年5月
株式を東京・大阪両証券取引所第1部市場に上場
1971年3月
詫間工場においてパーティクルボード工場の操業を開始
1972年9月
本社を香川県丸亀市に移転
1977年5月
丸亀第四工場(丸亀市蓬莱町)の操業を開始
1987年4月
新規材料事業部とホテル事業部を新設
1992年1月
「オークラ情報システム」および「ユニオン・グラビア」を設立
丸亀第五工場(丸亀市蓬莱町)の操業を開始
1995年1月
「オークラパック香川」を設立
仲南工場(仲多度郡まんのう町)の操業を開始
1997年1月
「オークラホテル丸亀」および「オークラホテル高松」を設立
2000年10月
新規材料事業部C棟(丸亀市中津町)の操業を開始
2003年4月
「オークラハウス」を設立
2004年9月
「九州オークラ」を設立
2005年8月
新規材料事業部D棟(丸亀市中津町)の操業を開始
2006年4月
「OKプロダクツ岡山」および「オークラプロダクツ香川」を設立
2007年1月
コーポレートセンターとR&Dセンターを新設
2007年7月
「関西オークラ」および「関東オークラ」を設立
2009年1月
「オークラプレカットシステム」を設立
2014年1月
新規材料事業部G棟(仲多度郡まんのう町)の操業を開始
2016年7月
「オークラプロダクツ」を設立
2019年1月
「埼玉オークラ」を設立
2022年1月
「KSオークラ」を設立
2023年5月
「OKURA VIETNAM CO., LTD. (オークラベトナム) 」を設立