大倉工業株式会社

大倉工業グループの歩み

大倉工業グループの歩み

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大倉工業の存在意義

創業時から変わらない
「社会と共生し、成長を目指す」思い。 大倉工業が掲げる基本方針「『社会から信頼される企業』であり続けるために、
事業を通じて、社会との共生を念頭に企業の成長を目指す」という思いが
どのように大倉工業に根付いてきたのか話します。

代表取締役会長 髙濵 和則

  • 生きるための事業が社会の求めることと一致

     大倉工業は戦後間もない1947年7月、高松市において四国住宅株式会社を設立したことから歴史がスタートします。会社が誕生した背景には、創業者である松田正二自身の強烈な戦争体験があります。松田は倉敷紡績の航空機製造部門であった倉敷飛行機高松製作所に勤務していましたが、高松にあった工場が空襲で焼失し、そのまま終戦を迎えることになります。その時、倉敷紡績から岡山県倉敷市の本社に戻るよう言われましたが、残された80人ほどの従業員の生活を考え、新たな事業を起こす道を選びました。そして戦後の復興過程で欠かせないインフラとして住宅建設事業に着目したのです。自分たちが生きていくために起こす事業が、そのまま社会が求めていることと一致する。当社が掲げる基本方針「『社会から信頼される企業』であり続けるために、事業を通じて、社会との共生を念頭に企業の成長を目指す」の原点がここにあります。

  • 新しい技術を取り入れ、生活を豊かに

     旺盛な復興住宅需要に伴って順調に業績を伸ばしていきましたが、あらゆるものの値段が上がる悪性インフレが事業を直撃します。受注はしたものの資材不足から材料がなかなか入ってこず、その間に材料価格があっという間に高騰してしまうのです。住宅を建てれば建てるほど赤字になり、事業存続の危機に立たされました。多くの負債を抱えることになりましたが、松田は取引先に迷惑が掛からないよう実家の資産を売却して信用を守り抜きました。どん底の状況を脱した松田は住宅に代わる新たな事業を育てる必要に迫られ、事業の種を探しに香川県にある国立の研究試験場を訪ねます。研究者のもとへ日参するうちに、アメリカでポリエチレンフィルムという新たな合成樹脂が脚光を浴びていることを知りました。
     軽くて丈夫な素材は持ち歩く買い物袋にするのに適しており、布に代わる素材として主流になると確信した松田は、1955年、ポリエチレン加工事業を主軸にすべく社名を大倉工業へと変えます。そして、アメリカの展示会に出向いて最新の製造設備を導入し、新たな工場を丸亀市内に建てました。その後、松田は東京、大阪などの近郊に工場を新設していくのですが、こだわったのは消費地の近くに建てることでした。買い物袋などに使われたポリエチレン袋は生活に欠かせない製品であり、生活者の近いところで生産、供給することでより安く提供できると考えたのです。

  • 環境負荷低減への思いも早くから

     高度成長期は大量に生産されたものを大量に消費することで経済活動が回っていました。その一方で、多くの廃棄物が出され、この削減が大きな課題になりつつありました。当時日本で使われる住宅用の木材は、輸入された後に国内で建材用などに加工されるのですが、加工した後に大量に発生する木材チップは燃やして処分するしかありませんでした。ドイツでは、廃棄する木材チップを加熱、圧縮して、接着剤で固め、板に再生するパーティクルボードが開発され、使われていました。松田はそこに目を付け、パーティクルボードの製造を1971年に始めます。使われている木材は全て再利用しているため、リサイクルの優等生といえる商品です。すでに半世紀以上前から、大倉工業では環境負荷の低減を考えた商品の製造に取り組んでいたのです。

  • 蓄えた要素技術を生かし、デジタル時代に貢献

     このようにして大倉工業は、合成樹脂と建材の2本柱で事業を大きくしてきましたが、創業者の松田はすでに次を見据えていました。「今やっている事業と絶対にかぶらないこと」を条件に、新たな事業を立案するプロジェクトを1987年に新規材料事業部として立ち上げたのです。この新しい事業部のメンバーに選ばれた私は、様々な原材料を用いて、これまで培ってきた溶融押出、延伸、ラミネートなどの製造技術を更に高度化し、フィルムをより薄く、より平滑にできる技術を開発する中で、光学フィルム分野に可能性を見出しました。当時はまだ時計や電卓くらいにしか市場に出回っていなかったLCD(液晶表示装置)は、今後市場が大きく拡大すると確信しました。
     当社が光学フィルム分野に舵を取った時は、LCDには様々な課題がありました。LCDは時計、電卓からワープロ、パソコンへ、携帯電話、タブレットに発展し、テレビへとその用途を広げていきましたが、白黒からカラー表示へ、静止画から動画表示へと、LCDに求められる品質はどんどん高度化していきました。これらの技術の進化に欠かせないのが、位相差フィルムや偏光フィルムです。当社は、大手化学メーカーが開発した位相差フィルム、偏光フィルムを量産化できる製造技術を確立し、液晶が抱える課題の克服に大きく寄与しました。その技術は、現在大型化しているテレビなどで、更なる進化を求められています。

  • 新しい価値を生み続けるために挑戦をし続ける

     大倉工業は創業以来75年余の歩みの中で、社会が抱える課題を克服すること、そして環境負荷低減に寄与することがそのまま事業の成長に直結するということを身にしみて感じてきました。そして、それを可能にするのが、合成樹脂、建材、新規材料事業で培ってきた要素技術があってこそであることも理解し、新たな製品の開発を通じて様々な技術を蓄えてきました。
     近年も、サステナビリティに向けた思いを持てる要素技術で形にし続けています。たとえば、農業フィルムの「エコカルマルチ®」は、使用済みの農業用フィルムを農家から回収し、再原料化したものを使うことで、資源循環を実現しています。これは今後のリサイクル事業の指標になるでしょう。また、パーティクルボードについては、国産材を活用する検討を進めており、日本の木材資源と林業を守る取組みにも注力しようとしています。当社のサステナビリティの取組みは資源循環だけではありません。コロナ禍で感染リスクが拡大していた胃カメラなどの内視鏡検査において、「Endo barrier®」はその安全性と利便性で医療分野へ広く貢献しました。
     「人ひとりを大切に」「地域社会への貢献」「お客様を第一に」に象徴される、当社に根付いた気風、そして当社の社員の特性である、誠実で粘り強い性格によって新しい価値を社会に生み出してきました。今後は、多様性を重視するとともに外部との交流の機会を設け、変化をいとわずチャレンジする意識をより強く持って新たなことに挑戦し続けていきます。そして、これからも「『社会から信頼される企業』であり続けるために、事業を通じて、社会との共生を念頭に企業の成長を目指す」を心に留めながら事業に邁進していきます。

沿革

1947年7月
高松市において旧倉敷飛行機高松製作所の役員・従業員の一部をもって住宅業の「四国住宅株式会社」を設立
1951年11月
商号を「四国実業株式会社」に変更
1955年11月
商号を「大倉工業株式会社」に変更
1956年1月
丸亀工場(丸亀市港町)においてポリエチレンフィルム加工工場の操業を開始
1962年1月
株式を大阪証券取引所第2部市場に上場
1962年4月
本社工場(丸亀市中津町)の操業を開始
1962年12月
丸亀第二工場(丸亀市昭和町)においてラワン合板の生産を開始
1964年6月
丸亀第三工場(丸亀市中津町)において化粧合板工場の操業を開始
1967年10月
埼玉工場(東松山市大字柏崎)の操業を開始
1968年2月
詫間工場(三豊市詫間町)において合板の生産を開始
1970年5月
株式を東京・大阪両証券取引所第1部市場に上場
1971年3月
詫間工場においてパーティクルボード工場の操業を開始
1972年9月
本社を香川県丸亀市に移転
1977年5月
丸亀第四工場(丸亀市蓬莱町)の操業を開始
1987年4月
新規材料事業部とホテル事業部を新設
1992年1月
「オークラ情報システム」および「ユニオン・グラビア」を設立
丸亀第五工場(丸亀市蓬莱町)の操業を開始
1995年1月
「オークラパック香川」を設立
仲南工場(仲多度郡まんのう町)の操業を開始
1997年1月
「オークラホテル丸亀」および「オークラホテル高松」を設立
2000年10月
新規材料事業部C棟(丸亀市中津町)の操業を開始
2003年4月
「オークラハウス」を設立
2004年9月
「九州オークラ」を設立
2005年8月
新規材料事業部D棟(丸亀市中津町)の操業を開始
2006年4月
「OKプロダクツ岡山」および「オークラプロダクツ香川」を設立
2007年1月
コーポレートセンターとR&Dセンターを新設
2007年7月
「関西オークラ」および「関東オークラ」を設立
2009年1月
「オークラプレカットシステム」を設立
2014年1月
新規材料事業部G棟(仲多度郡まんのう町)の操業を開始
2016年7月
「オークラプロダクツ」を設立
2019年1月
「埼玉オークラ」を設立
2022年1月
「KSオークラ」を設立
2023年5月
「OKURA VIETNAM CO., LTD. (オークラベトナム) 」を設立