大倉工業の歩み

あれから70年。
「技術優位な企業集団」を目指して、大倉工業は、また新しい一歩を踏み出した。

第一世代の偉大な歩み
戦後の焼け野原に大樹の芽生え

 大倉工業の誕生は、高松大空襲と敗戦ですべてを失った倉敷飛行機高松製作所の元社員が創業者松田正二の下に結束し、生きるために事業を興したことに始まる。その後、戦後の数々の困難を乗り越えながら、昭和22年7月、遂に大倉工業の前身となる住宅業「四国住宅株式会社」を設立するが、当時日本を不況の影が覆い始め、そのスタートは決して順風満帆なものではなかった。次々と起こる難題。しかし、木材市売り事業を始めるなど、その苦労を明日への活力にして、その後も彼らは挑戦を続ける。
 昭和30年、ポリエチレン事業に着手。ポリエチレン工場が建設中のなか、新事業にふさわしい名称を、と社名変更することとなり、思案の結果、松田が10年間勤めた倉紡の「倉」と、長い間お世話になった倉紡の大原社長の「大」の字をいただき、将来は親会社よりも大きくなりたいという希望を込めて「大倉工業株式会社」に決定した。
 翌昭和31年にはポリエチレンフィルム加工の操業を開始する。大倉工業の新たな時代の始まりである。

新たな事業分野へ
積極的に挑戦 躍進の時代へ

 昭和34年、東京にポリエチレン加工工場を建設。東日本での積極的な営業活動が始まった。その後も東京に次いで、大阪、福岡に工場を建設し、列島を縦断する生産・販売網を構築。大倉工業躍進の時代の到来である。そして昭和37年、創業以来15年を経て、遂に大倉工業は大阪証券取引所第2部市場に上場を果たす。この年、建材部門へも進出。石膏ボードとベニア合板の生産に着手した。次いで昭和39年には、プリント合板(オークラプリント)の生産に着手。このオークラプリントは高品質で安価と高く評価され、全国からの注文にその生産が追いつかないほどだった。
 戦後最大の不況といわれた40年不況を脱した日本経済は、以後、戦後最長の景気拡大期(いざなぎ景気)に入る。それとともに大倉工業の二本柱である合成樹脂部門と建材部門も着実に発展。新たな事業分野開拓の動きも活発化する。「ハウス事業」と「冷凍倉庫事業」である。
 四国住宅としてスタートした大倉工業にとって、創業当時の組み立て事業の復活といえる「ハウス事業」の新設。当時社長の松田はハウス事業新設の動機を「不況経済のなかで、積極的に将来性ある部門へ事業を拡大していくこと」と述べている。次いでスタートした「冷凍倉庫業」は、丸亀港に隣接し、工場用地として、また物流用地としても立地的に恵まれていた旧丸亀工場跡を生かした新事業を始めたいという思いから誕生。昭和44年2月に丸亀初の本格的大型冷凍倉庫を完成させ、操業を始める。
 そして昭和45年5月、大倉工業は大阪証券取引所第2部市場上場から8年余りで、念願の東京・大阪両証券取引所第1部市場上場を果たした。

混迷の時代のなかで、
経営多角化の動きを展開

 大阪で日本万国博覧会が開催された昭和45年、大倉工業では期待のパーティクルボード工場の建設が始まった。この工場で生産されたパーティクルボードは特に家電メーカーによって評価され、家電メーカーと一体になって高品質のステレオスピーカー材開発を成功させるなど、ユーザー志向の開発型製品を生み出していくことになる。昭和47年には本社を丸亀市に移転。また同年、ハウス事業部が分譲マンション事業に着手する。
 そのマンション計画と前後して始まったのが「ビジネスホテル計画」。快適で機能的、低価格のビジネスマン向けホテルの建設を目指し、昭和48年1月に株式会社オークラホテルを設立。同年7月24日、オークラホテル高松をオープンした。
 こうしたなか、時代は少しづつ変化していた。戦後最長、最大の好景気となった「いざなぎ景気」が頂点を極め、景気後退の影が忍び寄りつつあったのである。ニクソン・ショック、日本列島改造論の田中内閣発足、オイルショック…。混迷の昭和40年代後半ではあったが、大倉工業は次々と新事業をスタートさせ、経営多角化の動きを展開していくことになる。
 第1次オイルショック以後の苦境のなか、昭和51年3月、ハウス事業部は高級分譲住宅地「ヴィラ壇ノ浦」の分譲を開始した。しかし、オイルショックの翌年、日本経済は戦後初のマイナス成長を記録。時代はますます低迷を続け、大倉工業にとっても苦しい時代となった。

徹底した合理化を追求
新たな航海へ乗り出す

 第1次・第2次オイルショック以後、大倉工業では各部署で徹底した合理化を推し進め、あらゆる不況対応策を強化してきた。合理化の基本として情報化・コンピュータ化を推進。また、合成樹脂部門、建材部門の競争力強化を目指し、新たなチャレンジも始まった。
 そして昭和60年1月、久米志明が社長に就任。大倉工業は新たな航海へ乗り出した。

21世紀に向かって、
新体制づくりスタート

 昭和60年以降大きな時代の変革期を迎えた大倉工業は、21世紀に向かっての新体制づくりに取り組む。昭和62年4月の「新規材料事業部」と「ホテル事業部」の発足である。
 この「新規材料事業部」の設立に取り組んだのが後に社長に就任する鴻池正幸。大倉工業の強みを新たな成長分野で花開かせたいとの強い思いを込めてのスタートだった。現在、光学機能性フィルムに代表される画像情報分野などへ材料を提供。電子情報分野への進出は極めてタイムリーだったといえる。
 ホテル事業部は、本州と四国を結ぶ世紀の大事業「瀬戸大橋」の開通を控え、当時建設が進んでいた「オークラホテル丸亀」と従来の「オークラホテル高松」を統括する部門として誕生。
 同ホテルは四国最大規模のシティ・アンド・リゾートホテルとして昭和63年3月にオープン。
 その間、合成樹脂部門、建材部門でも次々と新製品が開発、商品化されていた。

創業50周年 国際競争で
優位に立てる企業を目指して

 21世紀を目前にして、大倉工業では国内外、社内外を巻き込んだ新商品開発、製造、販売の動きが活発化。そのなかで発足したのが「大倉工業が21世紀に生き残り発展するため」の中長期戦略「ビジョン21」を策定するビジョン委員会である。同委員会では8年後の平成17年に焦点を合わせ経営目標を策定。大倉工業が目指す統一企業像として「国際競争で優位に立てる」企業づくりを揚げた。そして平成9年7月、大倉工業は創業50周年を迎えた。
 それに先立ち平成9年3月、石黒治也が社長に就任。「ビジョン21」の具現化が今後の基本方策であるとし、「企業の実力を発揮するには、社員の自主性とチャレンジ精神。ひとつの目標に向かって社員が一丸となり、自己の個性と能力にふさわしい仕事を成し遂げることだ」と語っている。

技術優位な企業集団を目指して

 平成15年1月、鴻池正幸が社長に就任。  環境変化が激しい現代にあって、大倉工業の進むべき道を鴻池は考えた。創業の精神である「従業員とその家族の生活を守るため」「戦災で家を失った人に役立つため」を常に心に、創業者松田正二のチャレンジ精神を忘れず、時代の変化を受け止め、その中からこれからやるべきこととその可能性を見出していくべきであると。
 新たな半世紀を見据え、ビジョン21「国際競争で優位に立てる大倉工業へ」の具現化に向け、全社一丸となって取り組み、高度加工メーカーへと確実に舵を切った。
 そして平成22年1月、鴻池とともに新規材料事業部を立ち上げ、主力部門に育てた髙濵和則が社長に就任。
 髙濵は、これまで培ってきた要素技術を活かして、さらに高度な技術領域への挑戦を続けるとともに、創業70有年を経たこれまでの主力事業の構造改革にも取り掛かった。
「技術優位な企業集団」。大倉工業グループが、新たな時代に目指す姿である―。